2016年03月08日

カラヴァッジョ展を見て

一説では国立西洋美術館のみならず、前川国男設計の東京文化会館もコルビュジェがスケッチを描いたと言われているが、東京の中では双方とも私の気に入っている建築である。3月1日から開催されている『カラヴァッジョ展』に行ってきた。日曜日なのにすいていてちょうど良かった。彼の作品の多くはローマの教会に点在している。私の中ではレオナルド・ダ・ヴィンチと同等いやそれ以上の画家である。今回の国立西洋美術館にあるキャッチフレーズ「ルネサンスを超えた男」その通りである。間違いない。今回の展示の中では「エマオの晩餐」が好きだ。こんなに凄い絵は見たことがない。この絵はミラーノのブレーラ絵画館からやってきた。拙著「イタリア修道院の回廊空間」P.224にある絵画館である。二人のキリスト教信者が町中で「どうもこの男はイエスキリストなのではと食事に誘い、食事といっても血となり肉となる話のようにワインとパンしかない質素なものだが「間違いなくイエス様だ」と思った瞬間に姿が消えてしまったという逸話がこの絵の中に残っている。そういえばペーザロの北にトリノ・ディ・サンゴロという小さな小さな街があり、そこから電車で二つ三つ行った街の教会にワインが血になり、パンが肉になったという実物がガラスケースに入って飾られていた。横に医者の証明書もついていた。このブログに以前書いたかもしれない。カラヴァッジョ展の帰りは例のごとくアメ横の通りから横の路地に入ったガード下の居酒屋(こういうところが好きなのだなあ)でヤキトンと煮込みをつまみにひとりホッピーを呑み、絵を想い出しながら15分くらい滞在し渋谷に戻りはしごした。前にも書いたが、ローマに住んでいた頃はナヴォナ広場の近くにあったイル・バアカロという名前だったと思うが、ここのタラのフリット(唐揚げ)が白ワインの炭酸水割りによく合い美味しくて酔い方もよくヘンな日本人の常連客だった。プラーっとバス(トゥレンタセイ・36番の)に乗り、建物見学の後に立ち寄るのが楽しみだった。今もよく似たことをしている。
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2016年03月03日

10 10日間入院していた

この2月後半10日間ほど入院していた。左の眼が「原発性開放隅角緑内障」という疾患で手術をした。一説には4人に1人(成人の25%)と言われているそうだが、左右の目で補佐するため自分ではなかなか気づかない。目薬で抑えられるのだが、手術をやったほうが良いだろうと判断し、白内障の手術も同時に行った。近視だったので眼内レンズを入れた。遠くは見えるようになったが、左目は老眼鏡が必要となった。今までメガネ無しで本を読めたが、不便になった。
なんでもかんでも良くなろうと欲張りなのだろう。70歳を過ぎてあっちこっちガタが来ていることもある。去年から親しい友人たちも何人か旅立ってしまった。 何かパーっとやらなきゃと考えているが、毎晩のように友人たちと赤ちょうちんで宴会開いているのだからその必要も無いかもしれない。
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2016年01月06日

今年もよろしくお願いいたします

明けましておめでとうございます。
昨年は個人的にも大変なことがあったりしました。
今年は、元気を出して、ブログを書きます。
オリンピックのエンブレムに応募しました。
自分ではいいとおもっているのですが、果たしてどうなることか。
このブログを読んでいただいている方々全員に
今年はいっぱいの幸がありますように。
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2015年11月13日

左足膝の痛み

東北大震災の起きた同じ日にスチール製の重い椅子を二階に運ぼうとして階段の途中でバランスを崩し、ひっくり帰りそうになった。ここで落ちれば身体中骨折だらけだと思い、かろうじて支えた。その時に左足の膝を捻挫してしまい約一年の間びっこを引きあるいていた。整形外科に通いマッサージもしてもらい、ようやく回復した。それが数年ぶりに先月あたりから同じところが痛みだした。今のところは普通に歩けるが、年齢と共にあっちこっちが悪くなる。映画「アリスのままで」は認知症になっていく女性の大学教授の話だった。建築仲間でもひどい症状になり亡くなられた方もいた。それに比べれば少々痛くても耐えなければいけない。普段でさえ夜になると赤提灯に向かっているが、これからのシーズンは更に予定が詰まっていく。少々景気が悪くっても、膝が痛くっても、お酒に酔っている方が平和だ。渋谷駅近くの「細雪」は休みばかりなので宇田川町の定食&居酒屋「沖縄」に行っている。ここのオヤジもいい人で気があう仲間だ。160くらいの身長なのに空手師範で著名な方だ。いろいろな所に教えにいっている。渋谷に来られる際は寄ってあげてください。
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2015年11月11日

人との出会い

最近、いろいろな方がたから「イタリアの山岳都市に連れていけ」とお声がかかる。そこで旅行会社の窓口で調べてみると往復の航空運賃、ローマのホテル代込み、5日で\99,00.-とある。その昔、ローマに住んでいた頃、安売りチケット屋で日本への往復が5〜6万円だった記憶がある。イギリスやフランス、スペインに行くにも往復3万円前後で、飛行場でレンタカーを借り、安ホテルに泊まり、いろいろな国をひとり旅していた。日本の国内旅行よりも安い。徐々に航空運賃も安くなり日本からも世界中に旅することができるようになってきた。イタリアでは飛行機の待合室では、待っている人たちとよく話しをした。イタリア人では大卒のハンサムな青年がイタリア空軍のジェットパイロットを目指しているのだと言っていた。今頃、ベテランのパイロットになっていることだろう。日本人の25歳くらいのきれいな女性がイタリア人の彼と別れて日本に帰るのだと言っていた。同じ様にレンタカーでイタリアを走り回っていた60歳前後のおじさんとは帰国後も酒をくみかわす仲になった。飛行場ではいろんなシチュエーションがあり、人生模様がある。今の歳になって振り返ると呑み屋で知り合った素晴らしい友人が何人もいる。
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2015年08月25日

これからの老人たちの生活。TVはうるさい!

実は一生懸命やっていた奥多摩の三所帯改修設計が、90歳近い母親と娘さん夫婦、息子さん夫婦の意見が合わなくなり、計画がペンディングとなってしまった。暑い上に、こういう問題が発生し、他のこともやる気が失われてしまった。長く自分で仕事をやっていると、この仕事の何十倍以上の価格の中断も何回かあったが金額の大小のことではない。マスコミの影響がいかに老人を不安に陥れたかが大きかったかである。そのことにやり場のない怒りを覚えた。朝の某TVで老後の問題を取り上げ、貧困、病気、孤立に備えるための毎月の費用を深刻に捉えていた。私もたまたま同じTVを見ていた。即、ご老人から仕事用携帯に電話がかかり「TVを見ていて感じたが、この計画は中断してほしい、この年齢から貧困になるのはいやだ。」との内容だった。私の会社の費用はたいしたことはないが、娘さん、息子さん夫婦とお子さんたちはこれからの生活設計に大きな打撃を受けたようだ。まだこれからいろいろな展開があるかもしれないが難しそうだ。誰が悪いという話ではないが、良くも悪くもTVは社会に影響およぼすことが大きい。まだまだ若いと思っていたが、赤提灯通いの中高年(?高年か?)の自分も考えなくてはいけないのかもしれない。人のことを言っている場合ではない(女子大の教え子たちから「そうよ!」という声が聞こえてくる)。
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2015年07月16日

ショーン・ペンとジュリアン・ムーア、二つの映画

自宅でTVのハードディスクに撮っておいたひと昔前の映画、ショーン・ペンの「アイアムSam」を見た。その後日、映画館でジュリアン・ムーアの「アリスのままで」を観た。ショーン・ペンの知恵おくれの役、ジュリアン・ムーアのアルツハイマーの役、二人とも見事な演技で映画に吸い込まれてしまった。詳しいことは知らないが、治療不可能、大変しな難病になると安楽死が認められている国があると聞いた。人道的に難しい問題だ。誰しもが苦しい病にかからずに、いろいろなことで悩まずに、ある程度裕福に暮らしていきたいと望むことは当然である。みんながそうなれるといい。だが、実際の世の中では難しい。いろんなことが起きる。先にお話しした二本の映画も考えさせられることだらけである。基本的には政治が良くなければなりたたない。本人の努力も多々必要である。果たして自分はそうしているか?とてもしているとは言えない。夕刻六時、七時になると、赤提灯で頭の中をマヒさせている。えらそうなことは言えない。時々言っているが。コマッタモンダ
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2015年07月13日

新国立競技場について

話をすると頭にくるので、人に聞かれても「なんというバカな建築審査委員会と委員長で、なんという政治家たちだ」としか答えようがなくて、二の句をしゃべらずにいた。建築仲間からは「委員長が逃げてしまった」と聞き、その後TVで言い訳を言っているようだが、人に会うたびに「国立競技場の件はどう思う」と、いろいろな方から言われる。それは建築家として仕方ないが、何とも情けない。槇さんが言われていたことについても、我々、日本建築家協会の声にも耳を傾けなくて、日本の政府はどういう基準でコンペ審査委員やオリンピック施設の設計者を決めているのか。本当のことかどうか、審査委員長についても汚い話が飛び込んでくる。いずれ本当のことがわかることだと思うが。今は定かではない。相変わらず日本の建築界のコンペは公明正大に欠けていることだけは本当のことだ。
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2015年07月10日

70過ぎても、これもまた佳し

日本中の人たち、特に東京の人たちは「やっと晴れた」と思っている。私もそうです。私の実家は金沢にあり、育ったのは若狭湾、夏の間は毎日晴れていたが他のシーズンは曇りや雨が多かった。子供の頃から「一日も早くここから脱出したい」と思っていた。高等学校も同じ田舎だ。当時、高等学校は若狭湾に二つしかなく、成績順にクラス分けされていた。いろいろな中学から秀才たちがトップクラス、2クラスを目指してくる。東大、東工大、京大、阪大、神戸大学に行った同級生が多い珍しい学年だった。一昨日の夜は同級生の東大航空工学科卒 ℕ 君と新橋で飲んでいた。中学高校と同じだった、「こんなに良くできる人間がいるのか」といつも驚いていた。お互いいつのまにか70を過ぎてしまった。気持ちは若いのだが。周りは仕事を離れた友人ばかりになってしまった。凡才のこちらは、いまだに、さて、仕事をどのように展開していくか、と毎晩赤ちょうちんを見ながらホッピーを呑み考えている。呑み友達のおばさんたち、いや訂正、お姉さんたちに乞われ、同じ飲み友達 K さんと一緒にマージャンを月二回教えている。大学も定年退職となったし、建築を教えるのは終わった。新しい生徒さんたちは教え賃に毎回、豪華な食事とおつまみ、美味しい銘柄のお酒やワインを持参でやってくる。これもまた佳しとしなくちゃ。
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2015年06月29日

ヘレン・シャルフベック展とイタリアの五人

一昨年、途中まで書いた短編がそのままになっていたので20頁追加して完にした。ピランデッロの小説の中に中途半端にしておいた小説の登場人物が「どうしてくれるのだ」と文句を言っている面白い短編があった。確かに中途半端はいけない。先日、六角さんが設計をした東京芸術大学美術館で、フィンランドのヘレン・シャルフベックを見てきた。「妹に食事を与える少年」の二歳くらいの妹の表情がすごく良かった。「快復期」自分の失恋の痛手を乗り越えた絵だけど、構成からタッチすべてピカイチだった。「パン屋」は雰囲気が良く出た私の好きな絵だった。帰りにアメ横からちょっと入った山の手線脇の居酒屋でポッピーを呑んだ。路地にテーブルとイスがおいてある。同席した知らない人たちと話をしていたら日本に観光で来たばかりのイタリア人5人がぼくの椅子の後ろにに立っていたので少しの間、話をしていた。久々にイタリア語をしゃべった、楽しく話ができた。彼らも喜んでいた。相手の言うことがわかり、こちらもしゃべりたいことを言えれば、まあ下手でもいいか、と酔いながら、よしとした、すみません。シャルフベックは7月26日までやっている。ぜひご覧になってください。
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2015年06月23日

ベッラレジネッタ 完 ㉑

丈太朗はなにがなんだかわからないまま、じっとしていた。エレオノーラにとっては、待ち焦がれていた龍一郎が戻ってきたのである。姿形はぴったり同じ、やっと彼女は丈太郎がすべての記憶を無くしていることに気が付いた。
「ごめんなさいね、突然抱き付いてびっくりさせて」
「ひょっとして誰かとお間違えになられたのですか」
「間違えた訳ではないのです。事情をお話しないといけませんね。ここで立話しをしても説明はできないのでそこのベンチに腰掛けてお話します。聞いていただけませんか」
丈太朗にとっては驚くことばかりですぐには信用できない。その気持ちが表情に現れた。
エレオノーラはこんな話を信用するように言っても無理だと思った。
日本を発つ前から頭がどこかおかしい、それの原因はこのことだったのか。
立ち眩みがしてきた。そのまま芝生の上に倒れてしまった。長い夢を見ていた。自分がだれかの生まれ変わりらしいことや子供が二人いることがわかった。
目が覚めた所は地下の穴倉のようだった。チェルヴェテリにあるエトルスキの墳墓の中にいるらしい。
姿形は見えないが頭の中で自分に話しかけている声が聞こえる。このまま日本に戻るか、こちらで生活をするかの選択を迫られている。
自分の人生の残りをこちらで過ごすことに決めた。そう考えた途端、丈太郎の身体は移送され、エレオノーラたちの住むマンションの寝室で眠っていた。      完 ㉑
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2015年06月20日

ベッラレジネッタ S

建築仲間の旅行でフランク・ロイド・ライトの見学会が企画されていた。実物を見ておこうと参加をした。
ライトはマフィアに追いかけられ日本に逃れ、帝国ホテルの設計をした。実力は十二分にある著名な建築家であるが、さほど興味を持っている建築家ではなかった。
アメリカ旅行の帰りにイタリアに寄っていこうと考えていた旅である。
フイミチーノ飛行場(レオナルド・ダ・ビンチ空港)に着いた時にはどこかほっとした感じを持った。
山岳都市を見て回っていた頃はサルデーニア、シチーリアを含め列車やレンタカーでイタリア全土を歩き回っていた。懐かしい空気だ。土曜日のローマは静かだった。
ローマにいた頃、動物好きな丈太郎は日曜日のボルゲーゼ公園に多くの犬が放し飼いの散歩に来ているのを見るのをいつも楽しみにしていた。
久々の一人旅だ。奮発してハスラーに泊まろう。友人のアルドが支配人をしている。スペイン広場の上にあるハスラーは隣がボルゲーゼ公園である。いろいろな種類の犬たちと会える。
翌日、ジーンズにTシャッ姿で散歩に出た。昔、自分も飼っていたウエストハイランド・シープドッグが近寄ってきた。
日本ではウイスキーのラベル、ホワイト・アンド・ブラックでおなじみのスコッチテリア、通称ウエスティである。昔飼っていたウエスティは「レジーナ」と名をつけていた。
親がイギリスとカナダのチャンピオン同志の血統書付きの女の子だ、後ろ足の股に長々しい名前の刺青がされていた。血統書の証しである。可愛かった。糖尿病を患い毎週インシュリンの注射をしていたが亡くなってしまった。悲しかった。
あまりにもよく似ていたので「レジーナ」と呼んでしまった。駆け寄ってきた飼い主の女性が「どうしてうちの犬の名前を知っているの」と訊ね、丈太郎と目と目が合った。
顔を合わせた瞬間、顔じゅうが涙でいっぱいになり抱き付いてきた。   つづくS
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2015年06月18日

ベッラレジネッタ R

「そりゃあ老化現象てもんだよ、こんなに毎日酒を呑んでりゃ頭もおかしくなるよ、ボケて奇麗な女性の夢を見るなんでうらやましいかぎりだね」
「一緒にしないでもらいたいね、酔って階段から落ちて立ち上がれなくなるのは誰だい」
などとあいさつ代わりの憎まれ口を交わし、自宅に帰りベッドに横たわった。
大学の同級八ちゃん、伊藤八十八君は著名なジャズのプロデューサーだ。エイティエイツというレーベルを出している。彼にもらったモダンジャズのCDをかけ、バレンタインをストレートを呑みながら、自分の頭の記憶をさぐってみたが何にもでてこない。でも、どこかが、何かがおかしい。
丈太郎はこれまでに普通の人とは違う体験をいくつもしてきた。
子供つれの妹夫婦と明石に行った時の帰り、新幹線乗車口が一杯になるほど混み込みだった。一瞬ひらめきがあった。こちらの方から乗ろうと列車に乗せ「ここだ」と指定席通路に立っていた。神戸、新大阪、京都と席が空き全員座ることができた。それらの席には東京につくまで誰も来ず吸われたことがある。義理の弟が「お兄さん気持ちが悪いよ」と不思議がって、気味悪がっていた。
大学を卒業しイタリアの山岳都市を歩き廻っていた頃、誰も観客席にいないベローナのアリーナ(円形劇場)を見ていた。快晴の青空にちいさな黒いものが浮いていた。随分高いところまで凧をあげているな、と思っていたところ、すーっといなくなり、反対側の空に現れた。カメラで撮った。後で、ベローナの街の人達みんながそのUFOを見ていたことを知り、テレビでも放映されたことを知った。
大学卒業した頃、環状七号線、平町を走っていて、気が付いたら大井町の近くを走っていた。時計を見ても五分くらいしか走っていない。
こういうことは日常茶判事に起きる。人に言うと馬鹿にされるだけで、みんな信用しない。だから人には言わないようにしてきた。
それとこれとは関係ないだろう。
つづくR
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2015年06月17日

ベッラレジネッタ Q

 龍一郎が亡くなる時はエレオノーラもマレーナも悲しみに明け暮れたが、三年の年月が過ぎた。
日本で生まれ変わっていることはわかっていたが、どこにいるのか、名前はどうなっているのか皆目見当がつかない。

龍一郎はイタリアであったことはすべて記憶にはなく、東京の国立大学建築学科准教授になっていた。生まれ変わったため、名前も武丈太郎と言う名前に代わっていた。
渋谷、宇田川町のマンションの一室をアトリエにし、歩いてすぐ近く2DKのマンションで、ひとり住まいの生活を楽しんでいた。
大学の授業と設計の仕事を終えると井之頭線渋谷駅の近く、赤提灯「細雪」でホッピーの白とちょっとしたつまみを注文し、呑み友達の吉田久佳さんと話し込む酔っぱらいおじさんの毎日だった。
丈太郎が四十三歳になった頃だった。
「久ちゃん、どうも最近、頭の調子が悪くって、夢とか妄想を見るんだよ」 つづくQ
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2015年06月16日

ベッラレジネッタP

 エレオノーラは娘のマルガリータを連れてマレーナに会いに行った。
話し込むうちに昔からの親友のように二人の相性はピッタリだった。マルガリータもマリオが気に入り、帰りたくないという始末で、また明日会えるからとなだめすかしやっと帰路についた。
いっぺんにいろいろなことを話すわけにもいかなく、養育費などのことについては龍一郎に任せることとした。

エレオノーラは龍一郎のことで、チェルヴェテリの墳墓に眠る父親に会いに行くこととした。
昔の時代に戻る気持ちがなくなったこととマレーナとマリオのことなどを伝え、再度、龍一郎の寿命がなんとかできないだろうかと尋ねた。
定められた命は変えることはできないが、時代をさかのぼり再度生まれ変わることはできるだろう。ただし、今の記憶に戻るまでの年月が必要だ。その間は東京に住むことなる。
定められた通り龍一郎は四〇歳で逝去した。
それまでの間にヤキトリのお店はマレーナに譲り渡し、エレオノーラもマレーナもナボナ広場を見渡す同じマンションに転居した。
          つづくP
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2015年06月15日

ベッラレジネッタ O

マレーナは、自分に子供ができたことは嬉しかったが、母子二人で生活することは大変なことだった。
ロナウド夫婦に育てられたが、実の子供ではなく、フィレンツェのブルネレスキ設計「捨て子養育院(オスペダーレ・デッリ・イノチェンティ)」からもらわれた子供だった。
だから、ロナウドじいさんには迷惑をかけないように、この4年間、リストランテで懸命に働き、貧しいながらもマリオを育ててきた。彼女の生きがいでもあった。マリオも頭が良く可愛くてみんなから愛されていた。

 龍一郎は住まいに戻り、エレオノーラに事の事情を話した。
大らかで朗らかな、あっさりとした性格の持ち主である彼女は、さほど驚いた表情を見せなかったが、明日にでもマレーナに会いたいと言った。
「マルガリータにお兄さんがいたなんて、こんなに嬉しい話はないわ」
「自分の子供がローマいたことを知って本当に驚いたが、知らなかったとは言え、すべて自分の責任だ。君にも謝らなくてはいけない。申し訳ない」
「そんなことはどうでもいいの、大切なことはマリオのこと。そんなに素敵な男の子がいるなんて、あなたに感謝したいくらいだわ。できることなら私が引き取りたいけれど、欲しかった子供を取り上げる訳にはいかないから、これからのことはどんなことでも協力させてもらえるようにお願いに行ってくるわ」                                                  つづくO
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2015年06月13日

ベッラレジネッタN

「マリオ、お店の中で遊んではダメ」」
 声をかけた女性に見覚えがあった。トレヴィニャーノに一緒に行ったマレーナだ。     
「マレーナ僕だよ」
一瞬驚いた顔をしてこちらを向いた。
「行方不明の貴方が現れるなんて、ずいぶんと探したけれど見つからなかったわ」
 マレーナの話によると、両親であるロナウドじいさん夫婦たちと一緒に湖の別荘からエトルスキの墳墓に移送され、その後、気がついたらローマの住まいに戻っていた、と言う。マレーナは子供が欲しかった。ちょうどいいチャンスだと思い、龍一郎の部屋に押しかけ、あの時に身籠ったということだった。
走り回っていたマリオは自分の子供と言うことを知った。
「なんということだ」
龍一郎はこれまでのことを全て正直に包み隠さず話をした。後一年の命であることも。お店のことやエレオノーラのことは親から聞いて知っていた様子だった。
また会う約束をし、その日は自分の住まいに帰った。      つづくN
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2015年06月11日

ベッラレジネッタ M

 それはひとつだけある。お互いが元の状態に戻ることだという。子供たちは母親と一緒に暮らせるという。
この内容をすべて龍一郎に話しをした。
別れ別れになるこの選択肢は取らなかった。
龍一郎もあと一年生きられるのであればエレオノーラと子供たちと一緒がいいと言った。

 現世のローマに戻り、二人の愛はより深まっていたが。残りわずかな人生を如何に生きるかが課題となった。これは難しい課題だった。お金ばかりを優先する現代人の生き方とは半ば相反する。ひょっとしてこれがエトルスキの考え方なのだろう。

 龍一郎は以前に住んでいたアパートの大家さんに言って、エトルスキの足の彫像のある部屋を再度貸してしてもらうことができた。そこに設計事務所を開設した。大学の教授からの依頼で非常勤講師を週に一日、設計デザインの授業を引き受けることになった。 
 日本の大学教育では、設計は設計だけ、歴史は歴史だけといった講義であるが、イタリアでは、歴史の授業であってもそこからデザインを学び、幅広く都市環境を学ぶ教育が行われている。建築に対する考え方が根本から違っている。
日本にも今和次郎、吉阪隆正、香山壽夫といった教授たちが頑張ったが、建築学科の体制は旧態依然としたままとなっている。

 仕事もぽつりぽつりと依頼が来るようになったが、自分でやりたいことが多くてそれどころではない、それらの仕事はお断りした。一日の仕事が終わるとエレオノーラと一緒にやきとり屋で一杯やることが楽しみとなった。日本の居酒屋のように店には常連の客が毎日のようにやってきた。話し好きなイタリア人たちは閉店の時間までしゃべりまくっていた。
 龍一郎のおなかの痛さは、エトルスキの足の彫像をさすると痛みが消えてしまう。亡くなった義理の父親からのプレゼントだった。
 休みの日はローマの街中を散歩するのが楽しみのひとつだった。
ある日、ナボナ広場の近く、ユダヤ人たちの住むゲットーを歩いていた時に、タラのフライとカルチョーフィのフリット(アーティチョークの天麩羅)を食べさせる店を見つけた。懐かしい味だった。
店の中を四歳くらいの可愛いい男の子が走り回っている。なんだか日本人とのハーフのような顔をしている。
                                            つづくM
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2015年06月10日

ベッラレジネッタL

 エトルスキの科学は驚異的な進み具合で発展した。地下の空間でありながら太陽熱、天空の空間、鳥の飛んでいる空、夜の星、すべて彼らの科学技術が考え出したもので地上となんら変わりがない。緑豊かな自然もあり、違う惑星に来たようだ。
 地下都市は、従来エトルスキの住んでいた地域のみであるが地下交通網はイタリア本土を完備しており、従来のエトルスキの街、ペルージャ、アッシジ、ポー川の畔などへは高速で行き来ができる。
イタリア国外での生活圏内は世界中の町にばらばらに自分の住む国の国民として生きている。
 実際にこの地中で生活しているエトルスキは二千人くらいであり、地下都市のホテルで働いている。世界に散らばる同胞が夏休みなど里帰りに地下都市のホテルに泊まりにくる。

 二千三百七十二年の歳月の間に、エトルスキは各民族と結婚し、世界中に存在する。現在、地球上で活躍している著名な音楽家、芸術家、科学者の半分以上がエトルスキの血が入っている。当初の目的は達成されたのだ。彼らは別荘がわりに秘密裡にこの楽園の地にやって来る。長い人だと六ヶ月、短くても一カ月間の滞在をする。
 地上には負けないような自然があり、おだやかな空気が流れ、戦争はない。短い間の時間だが自分の祖先との対話のできる建物もある。

 龍一郎は充分満足した生活を送っていたが、若い頃、患った十二指腸潰瘍が時々痛むのでエレオノーラに話した。
ちょうど、亡くなった両親のお墓に行かなくてはいけない時期だったので、両親に言ってその病を直してもらおうということになった。墳墓には子供を連れていくことはできない。その日は子供と一緒にベッドで睡眠をとることとした。
翌日、彼女の力によって、目が覚めると豪邸のような両親の墳墓の中の客室に移動していた。
 死者との会話は、心の中での対話である。エレオノーラは、自分が如何に龍一郎を愛しているかを告げ、命に別状がなく、全快できるようにお願いをした。
返ってきた答えはこうだった。年代を超えた時空間の旅をしたため、以前に痛めた体の部分を弱めてしまったのだ。現状では、あと一年の命だという。エレオノーラは悲しみに沈んだ。だったら、子供もみんな一緒にいなくなるのがいいと言ったが、それは自然の摂理によって無理なことだと両親が言った。
では、どうすれば直るのかと尋ねた。
つづくL
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2015年06月09日

ベッラレジネッタK

 ローマに移り住んで三年が経過し、二歳になる女の子マルゲリータが授かっていた。
 ヤキトリ・エトルスキーノは連日、大繁盛だった。
 ある日、肌の色が陽に焼けたような褐色の男性がお客で現れ、今日の夜八時にスペイン広場の上にあるホテル・ハスラーまで来てほしいとエレオノーラに伝言があった。
 龍一郎と一緒に行くと、小さな会議室に通
された。彼らの話を聞いて二人とも、驚いた。
  龍一郎が電気の作り方を教え、エトルスキの子供たちのために学校制度のあり方を教えたことなどが花開き、ファーゼ・エトルスカの地下には、立派なエトルリア帝国ができているというのだ。科学技術も現代の地上の文明の比ではないという。
 いったいどのような都市なのか興味があった。翌日、テヴェレ川の畔、エマヌエーレ二世通りに面したパラッツォの一階にある住宅に子供と一緒に龍一郎とエレオノーラ二人は招かれた。
 この共同住宅の地階には各所帯の倉庫があり、その地下通路はかなり離れた他のパラッツォに通じている。この建物は建築家の間でも有名なルネサンス建築である。  
 著名な日本人の画家がここに住んでおり、その画家の奥様が友人の知り合いということもあり、このパラッツォに来たことがあった。リビングルームの暖炉の近くのソファーに座るように案内された。
 正面に座った二人のエトルスキが
「それでは我々の国にご案内をいたします」とテーブルの上にあるテレビのリモコンのようなもののスイッチを押した。
ちょうどディズニーランドのスペースマウンテンのように龍一郎たちのソファーはカプセルのような圧縮空気に包まれ暗闇の中を音もなく進んでいった。娘のマルゲリータは遊園地感覚で大喜びだ。  
 カプセル専用の地下通路を浮遊し、二十分もすると、巨大な地下空間の広場に到着した。この広場はどこかで見たことがあると思った。ビジェヴァノのピアッツァ・ドゥカーレとそっくりなのだ。周りの建物も床のデザインも外灯も同じだ。不思議なことに、地下であるはずなのに青空が見え、太陽も照っている。
 彼らの話しでは、この地下都市の中には、地上と同じ環境のスペースがいくつもある、という。  
                                           つづくK

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